いつも笑顔で☆-----なるべくなら、いつも笑顔でいたい♪-----そんな気分で生きていても、人の心はお天気と一緒。 青空の日もあれば、雨雲、土砂降りの日もあります。 みんな、誰だって一緒。 だけど、心はいつだって、ハート・オブ・ゴールドでいたい。 そして、 なるべくなら、いつだって笑顔でいたい。 このフリーページは、あんまり意味のないページです。 日々の徒然で想う事、青空と曇り空入り乱れる混沌の様相のまにまで、ただ、夢見るように何かを想う。 いつだって、笑顔でいられますよに、となんとなく願うように。 そんな文章のエトセトラです♪ ---------------------------------------------------- 『愛のイメージ、幸せのイメージ。もし、あなたが映画監督なら、どんな作品を作りますか?』 2009.5.8日記 ---------------------------------------------------- 今日の午後に撮った写真。 仕事での移動の最中に、道路脇に咲き誇っている花々に目を奪われて車を止めて撮った一枚。 まるで、映画のワンシーンのような風景。 この写真を形容する言葉として、映画のよう、と表現するって不思議な気もする。 映画はけっこう好きだけど、そんなにそんなに沢山は観ないし、多くの映画を知っているわけでもないんですよ。 なのに、映画のワンシーンのよう、と感じることに、どんな理由があるのだろう? 自分でも、よくわからない。 まあ兎にも角にも、古い時代の良質なヨーロッパ映画のような、そんな風な、心なごむ一枚だと感じます。 (どこが?と言われても困るのですが。・・なんとなく、です。) もし、自分が映画監督であったなら、この風景を舞台にして、どんな映画を撮るだろう? あなたなら、どんな映画を撮りますか? 僕なら、恋愛映画ですね。 ただの恋愛映画ではなくて、少し不思議で詩的な物語。 愉しくて、甘酸っぱくて、どこかしら切なくなるような小作品にしたいなあって想います。 たとえば男女が草原に寝っころがりながら空を見上げ、たんぽぽの茎の部分を口にくわえる、ストローに空気を送り込むように。 すると、たんぽぽの羽毛が無数に軽やかに空に音もなく舞い上がって、遠くまで飛んでゆく。 シャボン玉みたいに。 その風景を眺めながら、二人の男女は、愛の言葉を交わすわけでもなく、心地良い風の中で、世界を感じながら空を見つめている。 そんな感じの質素で素朴なシーンが延々と続く、静かな映画。 ああ、いい感じ、いい感じ。 そんな風な映画があったら、自分でも観たいです(笑)。 というより、そんな風景を、人生を生きてゆきたいなあって想います。 ---------------------------------------------------- 『奇跡よりも、宇宙の大らかな愛と自分の努力を信じる』 2009.1.21日記 ---------------------------------------------------- 100年に一度の激しい世界的混沌の渦中、大不況、といわれる現在において、不安感に打ちひしがれている人達は沢山いる。 でも、こんな時代に宝くじとかパチンコとか競馬とか株とかで、一攫千金みたいな賭けに走ったら、最悪のどつぼにはまると思います。 先が見えにくい時代だからこそ、降ってわいたような奇跡を信じない、そんなものは願わない。 ブログTOPに記したマーフィーの言葉のように、 豊かな生活、幸福な人生、成功に輝く人生を信じる。 そして、一歩一歩少しずつ、己の努力が齎す最善を期待し、日々の暮らしの中で、喜びと共に毎日を過ごす。 人が ”奇跡” と呼ぶような何かが人生に起こる瞬間って、こうしたことの連続が呼び込むのだと思います。 奇跡なんて、信じない。 陳腐極まる淡い幻想など捨て、正確に目の前の打破すべき課題に狙いの照準を定め前進していれば、 そんなものは、忘れた頃に、勝手についてくるものだ。 ****************************** 豊かな生活、幸福な人生、成功に輝く人生を信じなさい。そうして最善を期待し、喜びと共に毎日を過ごしなさい。そうすれば絶えず最善があなたのもとにやってくるでしょう。 (ジョセフ・マーフィー Joseph Murphy) ****************************** このマーフィーの言葉は、20代の後半くらいに、たまたコンビニで手にしたマーフィーの本に記されてあった言葉でした。 先日に何となく部屋にある沢山の本群を整理整頓していて、久々に読んでみたら、驚いてしまったんです。 20代の頃の僕が読み取ることが出来なかった、この世の真実のような何かが確かに、この言葉には宿っているように唐突に感じて、月日が流れる速さを想うと同時に、少しだけ、ほんの少し成長した自分がいることを実感しています。 ----------------------------------------------------------------- 生きることの基本位置に立ち戻ることの出来る人は幸福で美しい ~2009.02.15日記より ----------------------------------------------------------------- 愛って何でしょう? 幸福って何でしょう? 美しいって何でしょう? さあ、僕には皆目わかりません(笑)。 ただ、これだけは言えます。 生きることの基本位置に立ち戻ることの出来る人は幸福であり、愛を知っていて、美しい、と。 幸福の話をすることのできるのは 幸福な人ばかりです あの一匹の 年とった犬に幸福のことを聞いてごらんなさい? たぶん ほら 黙って向こうへ行ってしまうでしょう (寺山修司 著 『愛さないの 愛せないの』より) なんというか、男って生き物は、年老いた犬みたいなもので、 だいたいが、幸福とか愛であるとか、美しさなんて中々理解できないものだったりもします。 これは僕に限った話ではないでしょう。 話を変えて。 もう何年も前のこと。 俳優の石田純一氏がテレビのバラエティ番組で、こんなことを話していました。 「結婚の良いところは、いつでも戻ることの出来る場所があるということ。都合の悪いところは、いつも帰らなければならないこと。」 だいたい、こんな内容の話だったように記憶しています。 プレイボーイらしい発言といえばそれまでですが、 いつでも帰ることの出来る家庭を持った夫ばかりではないのが世の中です。 旦那が出張で家の中が今日も平和♪なんて風に思っている妻だって少なくないかもしれませんし(笑)、 兎にも角にも、安心して帰ることの出来る場所を持っている人は、幸福なのだと思います。 殆どの人は、家庭の中で育つ。 家庭を持たず、結婚という形式からも離れたところで生まれてくる人もいるでしょうが、 男と女が結ばれたことの証としてこの世に生を受けたことだけは確かです。 多くの人にとって、家庭というのは、家族というのは魂の故郷にも似た、あたたかい場所、憧憬の場所であるということが出来ると思います。 だけど、 男にとって、帰るべき場所というのは、常に家庭なのでしょうか? これは結構、難しい問題だと考えます。 なぜなら、家庭にとって男という存在は、少なからずの場合において収入源を齎す存在であり、 それが家庭の中心という存在とイコールで結ばれているとは限らないからです。 おそらく、家庭という場所の中心はいつだって、女性=母親に違いない。 きっと、男=父親、旦那というのはグリコのオマケみたいなもので、そこにいなければ他の存在達にとって絶対に不可欠であるとは言い難い。 勿論、父子家庭というのもありますから一概にはいえませんが。 男にとって、たぶん家庭という場所は、2番目くらいに大事な、生きることの基本位置。 そんな気がします。 1番大事な基本位置って何だろう?と考えた場合、 それは仕事でしょうか。 いや、仕事が象徴する何か・・・・・これは説明が難しいですね。 男にとって仕事が人生の最優先事項であれば、定年を迎えた人の多くが急激に老いてしまうという事実が虚しく思えてしまうという理由で、敢えて、仕事が象徴する何かと書いたわけですけど。 仕事が最も重要なものであるなら、その重要なものであるところの一体何が、それほどまでに重要であるのか、その本質にあるものが姿をあらわしてくるはず。というか見えてこないといけない。 まあ兎にも角にも、仕事よりも家庭が大事なんて言いながら家庭に閉じこもりつつ、奥さんの収入を当てにしている旦那さんもこの世には少なからずいるもので。 そうした男よりは、家庭以外に己の一番大事にしている、生きて行く上での帰るべき基本位置を持っている男の方が、結果的には収入だって多く家庭に運んできてくれるような気がしますし、 男としての魅力や優しさを備えているような気もします。 ということで、 先日から、考え続けているのですよお。 自分にとっての、生きる上での基本位置って一体、何だろう?と。 仕事? いえいえ、それよりももっと重要なものがあります。 仕事が重要でないという意味ではなく、それがきちんと内に備わっていないと、仕事だって身につかないように思える、もっと本質的な基本位置のこと。 ”心の在り方” といってしまえばそれまでですが、 上手くいえないけれど、 心の平穏という名の草原に、戻りたい時にきちんと戻れる人は幸福なんじゃないかなあと、そんなことが書きたいわけです。 こういうのって、男も女も関係ないですね。 誰だって、家庭を持っている人も、そうでない人も、 そうした基本位置に立ち返ることの出来ることこそが、幸福ということなのかもしれません。 ----------------------------------------------------------------- ニール・ヤング ~一匹狼の詩(うた)~ ~2007年の過去日記より ----------------------------------------------------------------- 数年前にカンヌ映画祭でグランプリを受賞した『華氏911』というアメリカ映画がありましたよね。 あの映画のエンディングに激しく心臓を揺さぶるような歌が流れるんです。 あの歌を歌っているのがニール・ヤングというミュージシャン。 『華氏911』という映画はイラクを攻め立てたブッシュ政権の実像や軍産複合体に象徴される国家の暗部にひたすら迫ろうとする怖い、そして勇気ある映画です。 その映画のエンディングに何故、この映画を撮った監督はニール・ヤングの歌を使用したのでしょう?。 答は、この映画を見れば、そして、ニール・ヤングの歌を聴けばよく理解出来るに違いありません。 人は強い憤りを抱えた時、あるいは激しい理不尽さに腹を立てた時、どのような行動を取るのでしょうか? 恐らく大抵の場合、人の取る行動・言動は次の三種類に分かれるのではないかと思います。 一つは見て見ぬ振りをしながら静かに自身の生活を守る、もう一つは自分の世界に閉じこもる(鬱になる)、そして最後の一つが「闘う」。 僕が思うに、ニール・ヤングの歌には、上に説明した人の行動の三つのパターンのうちの二つが根本にあるように感じます。 自分の世界に閉じこもる(鬱になる)、そして「闘う」。この二つです。 前者がニール・ヤングの非常に濃い文学性に集約され、後者の「闘う」精神の部分が映画『華氏911』の最後に効果的に使用される「ロッキン・イン・ザ・フリー・ワールド」という怒涛の名曲に強くあらわれている。 こうした分裂症的ともいえる内的世界で燃え上がり相反し続ける説明のつかない陰と陽のエネルギーこそが、ニール・ヤングの歌の根底で蠢きながら太陽の強烈な光の如き轟音を成し時に優しい月の光を成している。 だからニール・ヤングの歌は聴く者の心を激しく心を揺さぶり、魂の芯まで染み入るように響いてくるのでしょう。 ニール・ヤングの歌が国境を越えて世界中の人々の心を、一介の小さな存在に過ぎない名もなき全ての兵士たちの魂を強く揺さぶり捉えて離さない、その理由がここにあるように僕は確信します。 ニール・ヤングの歌を聴いていると涙が止まらなくなる。 そんな風に想うニール・ヤングのファンは世界中に沢山いるはずです。 ニール・ヤングの歌に出会えただけで、それだけで人生が救われる気持ちになれる、それだけでもこの世に生まれてきた価値はある、前に進む価値は十分にあるのだ、と。 http://item.rakuten.co.jp/asahi-record/00000566734/←クリック 上に紹介したCDはニール・ヤングのベスト盤のCDです。史上最強のグレイテスト・ヒッツ・アルバムです。 このアルバムに心を傾けながら、孤高なる一匹狼(ローナー)の魂の燃焼に触れて欲しいと思います。 言葉も出ないほどの名盤です。心の底からお勧めです。 一匹狼にしか歌えない、この世の真実というものがあります。 孤高なる一匹狼にしか伝えられない、この世の最も崇高で普遍的な「人の愛」と「孤独」があるのです。 ニール・ヤングという孤独な旅人の歌声を聴きながら、僕はそのように想いを馳せています。 ---------------------------------------------------- 『幸福をつかまえるには?』 2009.5.17日記 ---------------------------------------------------- 幸せになりたい、愛があふれた生活をおくりたい。 誰もがそう願っているはず。 では、幸せになりたい、愛をいっぱい感じたり豊かな人生を生きたいと願う人が多いのに、巷には ”幸福” を謳う本が溢れているのでしょう? 自分が願うふうに、現実がそうは上手くならないことのあらわれだと思います。 もし、この世に生きる全ての人々が常に幸福であるのなら、書店で無数の ”幸福へいざなう本” を目にすることもないのだから。 幸福をつかまえるには、一体どうすればいいのだろう? そんな風なことを、僕もよく考えます。 多くの人々と同じように、幸福ってなんだろうなあとか、いつも幸せでいられたら素敵だなあ、とか。 それで、最近、よく草原を舞う蝶々を目にしながら、こんなことを想うんです。 「ああ、キレイだなあ。写真に撮ろう♪」 でも、そんな時に限って蝶々はカメラのレンズの前に留まってはくれないものです。 ほんのちょっとした人の気配が空気の振動として伝わっただけで、軽やかに遠くの方へ飛び去ってしまうから。 花を写真に撮るのとはわけが違います。 そんなふうに、惜しい気持ちを抱きながらも、次のようにも想ったりもするのです。 「カメラに撮っても仕方がないな。美しい存在に出逢えただけでも幸せと思わなきゃ」と。 ましてや、目の前の蝶々を網か何かで捕まえたりしようなどとは考えないことです。そういうことって、とても大事。 幸福だって、これと同じようなことがいえるような気がします。 捕まえようなんて、思わないことです。 さて、上に書いたような、草原を軽やかに舞う蝶々の風景を目で追いながら、最近、僕は次の言葉を思い出していました。 素敵な言葉です。今月のブログTOPの名言コーナーにあげることにしました。ヘッベルという詩人の言葉です。 ~幸福は小鳥のようにつかまえておくがいい。できるだけそっと、ゆるやかに。 小鳥は自分が自由だと思い込んでさえいれば、喜んであなたの手の中にとどまっているだろう。~ ジャンル別一覧
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